しずかな日常ノート おでんには練り物だけあればいい

定年オヤジがエッセイのようなものを書いてみた

八十歳まで続く住宅ローンと、働き続けるということ

 

「六十五歳以上で四千万円以上の貯金がある人が二割いるらしい。」

 

その数字を聞いたとき、まず浮かんだのは感心でも分析でもなかった。 

「本当だろうか」というかすかな疑いと、それに少し遅れてやってくる、

湿り気を帯びた羨ましさだった。

 

五人に一人。 割合にすれば単純だが、

顔の見える人数に置き換えた途端、その数字は現実味を失う。

電車で向かいに座っている老人も、スーパーで値引きシールを確かめている人も、

その中に含まれているのだろうか。 そう考えると、

数字だけが宙に浮き、手触りを失っていく。

 

もちろん、そういう人たちはいるのだろう。

長く働き、退職金を受け取り、地道に積み上げてきた人。

あるいは時代の波にうまく乗り、資産を増やしてきた人。

四千万円という数字は、そうした時間の固まりのようなものだと思う。

 

だがそれは、数ある老後のかたちの一つに過ぎない。

 残りの八割は、その外にいる。 そして私は、ためらいなくその側にいる。

 

六十五歳を過ぎた今も働いている。 「働きたいからか」と聞かれれば、

答えに少し迷う。本音を言えば、働かずに済むならそのほうがいい。

朝早く起きる必要もない。 通勤電車に揺られることもない。

体力の衰えを気にしながら一日を終えることもない。

 

だが、働かないという選択には別の不安がある。

収入だけではない。 社会との距離が少しずつ開いていくような感覚だ。

気がつけば、自分だけが岸から離れていくような心もとなさがある。

だから結局、翌朝になるとまた職場へ向かっている。

 

いまの私は嘱託という立場だ。 正社員ではない。

 かといって完全に外でもない。 細い糸でつながれているようなもので、

その強さは自分にも分からない。

更新されるかどうかは最後まで分からないし、

働き続けられるかどうかは、自分の意思だけでは決まらない。

 

ある日、手を洗いながら、自分の手に目が止まった。

思っていた以上に皺が増えている。 

若いころには気にも留めなかった線が、

手の甲に幾重にも重なっている。

その一本一本が、過ぎてきた時間の量のように見えた。

この手で、あと何年働くのだろう。

 

住宅ローンはまだ残っている。 完済は八十歳の予定だ。

家を買った頃には、そんな未来は想像していなかった。

定年を迎える頃には払い終えているものだと、疑いもしていなかった。

けれど現実は違った。 この先、何年働けるのか。

その問いと、あと何年払い続けるのかという問いは、

いつの間にか同じ場所で重なっている。

 

四千万円。 口にするのに数秒もかからない。

だが、その数字の中には長い年月が閉じ込められている。

使わなかった金。 見送ったもの。 続けてきた習慣。 

そうした積み重ねが、ひとつの数字になる。

 

私に残っているのは、それとは少し違う時間だ。

積み上がった資産ではなく、まだ終わっていない約束。

八十歳まで続く住宅ローンという形で、それは今も手元にある。

だから四千万円という数字を聞くたびに、

単純に羨ましいとも言い切れない。

だが、それでも羨ましい。 その感情だけは消えてくれない。

 

理屈は理屈として理解できても、感情は別に生きているらしい。

私には四千万円はない。 その事実は変わらない。

おそらく、この先も急には変わらないだろう。

それでも朝になれば、また仕事へ向かう準備をする。

八十歳まで続く住宅ローンと、少しずつ増えていく皺と、

割り切れない思いを抱えたまま。

 

玄関で靴を履く頃には、四千万円のことなど忘れているかもしれない。

だが、ふとした拍子にまた思い出す。 ニュースの見出しや、

誰かとの雑談の中で。

そのたびに私は、自分の手を見るのだろう。

そして、この手であと何年働くのだろうと考える。

 

答えはまだ出ていない。 おそらく、これからもしばらくは出ないままだ。 

それでも時間だけは進んでいく。 

まるで住宅ローンの返済予定表に並ぶ数字のように、静かに、確実に。

 

 

 

 

 

 

読んでくれてありがとう。

あなたのこれからの時間が、静かでも、穏やかでも、

少しだけ軽くなるように願っている。